Jinsen's パイプ

読み物: シャーロック・ホームズのパイプ 3

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 ホームズ愛用のたばこは何だったか。
 はっきり記述があるのはシャグたばこ(shag)である。

◯バスカヴィル家の犬
「『ワトソン君、出かけるのかい?』
 『用があるなら出かけなくてもいいよ』
 『いや、君の手をかりるのは、いよいよ仕事にかかってからさ。しかしこんどのはすばらしい。ある点からいえば、まったく特異な事件だよ。ブラッドリの店のまえを通ったら、いちばん強いシャグ煙草を1ポンド届けさせてくれないか。たのむ』」

◯ 唇の捩じれた男[冒険]
「この日も彼が徹夜の用意をしているのが、私にはすぐ分かった。彼は上衣とチョッキを脱ぎ、そのうえから大きな紺のガウンを着て、部屋中を物色して寝台からは枕を、ソファと肘掛椅子かにはクッションを集めてきた。そしてこの材料をもって東洋の寝椅子風のものを拵え、そのうえに胡座をかいて膝の前に1オンス入りの強いシャグ煙草とマッチの箱をおいた。愛用のブライアのパイプを口に、ぼんやりと天井の一角を見すえて、鷲のように鋭い緊張した顔を浮きあがらせ紫の煙をたちのぼらせながら無言の行をしている動かぬ姿が、ほのぐらいランプの光のなかに見えていた」

 シャグたばこはリボンカットよりさらに細かく刻んだ葉でそのまま手巻きたばこにも使える。若い頃ぼくがヨーロッパをあちこち旅したときはミュンヘンで買ったスタンウェルのパイプにシャグたばこを持ち歩いた。シャグはクラン、巻き紙はドラム、あちらの学生はシガレットが高くて手がだせず、みなさんこれだった。クランはパイプでも吸えるし、手巻きにしてもいいので便利だった。
 ある識者によると、ホームズの時代のシャグはかなり粗悪品で、たばこ葉のいいところはシガレット用やふつうの刻みパイプ用に使い、いわば余りものを細かく裁断してシャグとしたという。しかしクレイパイプが一般的だった時代はこのパイプのボウルは小さいのでたばこ葉は細かい刻みほど吸いやすかったはずである(いまは逆に標準のパイプだとシャグは燃焼が早すぎて吸いづらい)。かならずしも粗悪品ではなかったと思うのだが、どうだろうか。
 ただおおかたの意見としてホームズはコニサー ( connoisseur、食でいう味にうるさい美食家 )ではなくもっぱらニコチン摂取のためにたばこを吸っていたとされ、これはぼくも同感だ。

 つぎにワトソンのたばこである。
 ワトソンのたばこはホームズ探偵談の第一話「緋色の研究」の冒頭に出てくる。
 一人暮らしで下宿さきを探しているワトソンがおなじ目的でルームメイト物色中のホームズを紹介されるシーンである。二人はここで初めて出会い、このあとしばらくベーカー街221B番地の部屋で起居をともにするのだ。
 この第一話が書かれたのが1886年なので時代設定はそれ以前のことと推定できる。
(余談だが、ぼくの持ってるホームズ本は1955年頃出版のものなので、この番地、ベーカー街221Bがベーカー街221乙になっている。ハハハ。昔の翻訳者は何がなんでも日本語に訳そうとして、ABCの「B」を甲乙丙の「乙」にしたんだナ)

◯ 緋色の研究
「『僕の眼をつけている部屋というのはベーカー街ですがね。部屋としては申し分ない手ごろさなんだ。君、強い煙草の匂いはべつに気にならないでしょうな?』
 『私は自分でもふだんシップス(ships)を愛用しているくらいです』」
◯ 背の曲がった男[思い出]
「『やあ、ワトソン君、まだいいんだろうね?』
 『君だったのか。まあはいりたまえ』
 『はは。びっくりしているね。無理もない。それに患者じゃなくてほっとしたろう。ふむ。相かわらず(独身時代の)アルカディア・ミクスチャーを愛用しているね。服についているその綿みたいな灰ですぐわかるよ』」

 この引用は少しぼくが手を加えた。新潮社文庫版の訳文は「独身時代の」がぬけていて「相かわらずアルカディア・タバコを愛用しているね」になっている。原文は「You still smoke the Arcadia mixture of your bachelor days, then! 」なので上のように手を加えてみた。
 シップスを吸っていたワトソンがアルカディア・ミクスチャーに転向する。ムムム、それはいつからなんだ! シャーロッキアン達が目の色変えて探偵する。
 ホームズとワトソンの出会いが1886年もしくはそれ以前なのは前に書いた。二人はしばらくベーカー街221B番地に下宿するが、つぎに第二作「四つの署名」に書かれた事件でワトソンは依頼人のモースタン嬢と婚約する。新潮社文庫版の訳者、延原謙のあとがきによると結婚は1887年10月1日頃とされる(ここまで推測した訳者も相当なシャーロッキアンだネ)。このあとワトソンはホームズとの下宿さきを出て愛妻とともに医者を開業するだが、突然その家を夜更けにホームズが訪ねたときの話が引用した「背の曲がった男」事件である。冒頭に「私の結婚後、二、三ヶ月たったある夏の夜」とある。
 シャーロッキアン達はこう探偵した。
 軍医としてインドに駐在していたワトソンが帰郷し、ロンドンでホームズとともに暮らす頃は船員が吸う安たばこ、シップスを愛用していた。しかし「四つの署名」事件でモースタン嬢と婚約してからはまさか紳士が安たばこでは恥ずかしい。そこで人並みにアルカディア・ミクスチャーに転向した。もっぱらモースタン嬢との新婚生活を思んばかってのことである、つまりこのたばこを常喫したのは婚約成立後、結婚まで、ホームズと同居した独身時代である、と。
 いやはや。オタクというのはすばらしいものである。

 シップスは当時船員が吸っていたロープたばこだろうと想定されている。つまりNavy Cutの初期のものである。Navy Cutという名称は、文字通り船員用のたばこで、昔はロープたばこだった。Three NunsやEscudoのようにロープを輪切りにしたたばこはもともとのNavy Cutの名残りである。のちにプレス技術が発達し、ケーキたばこやプラグたばこができ、さらにそれをスライスしたフレークたばこが登場してからはNavy Cutはフレークたばこを指すことになる。フレークたばこはそもそも船員用だったのだ。
 ワトソンはイギリス海軍の軍医だったが、イギリス海軍は船員(軍医も)が吸うたばこは航海中は税抜きで提供した。もちろん安たばこだしニコチンも相当きつかった。シップス(Ships)という名に類似するたばこがオランダ製で当時あったという説もあるが、船員たばこを類推させるためにコナン・ドイルが創作した名称という見方が一般的である。
 いっぽうアルカディア・ミクスチャーは実際にあったらしい。ある説によると、カレラス社がこの名のたばこを販売していたそうだ。カレラス社はロンドンに本拠をおくスペイン系の大手たばこ会社で、のちにダンヒルたばこを買収し独占販売する。このアルカディア・ミクスチャーはかなり高価な高級たばこだったようでだから、マ、可愛い奥さんのいる若い開業医にふさわしいたばこだったといおうか。

 さて。例によってホームズ、ワトソンご愛用でなく、事件のなかに登場するたばこに興味深いものがあるが、それはまた次回に。

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by jinsenspipes | 2013-02-24 22:00 | Comments(4)
Commented by 天邪鬼 at 2013-02-28 08:40 x
お邪魔します。

このブログでは珍しいことに、コメントが入りませんね。

皆、圧倒されているんでしょうか?(笑)
と、私もそうなんですが(^^;

jinsen さんのシャーロック・ホームズのパイプシリーズ、とっても面白いです。

へぇ〜、そんな見方もあるんだと、自分の読み方の浅さと、jinsen さんのシャーロッキアン(って、ご自分では思っていらっしゃらないようですが)ぶりの差に、ビックリしで、改めて、読み直しているところです。

パイプの歴史って、長いようで短いということに、気づかされました。
今回の一連の話を読むまで、たいして考えもせず、ホームズもブライヤーパイプを喫っていたと思っていたくらいですし。

本当に面白いです、

続編を楽しみにしています。

それにしても、所有なさっている本が1955年って、私が生まれる前。

jinsen さんの年齢が気になります(大きなお世話でしょうが)(笑)
Commented by jinsenspipes at 2013-02-28 17:48
>天邪鬼さん
ありがとうございます。
いやあ、ぼくなんかとてもシャーロッキアンとはいえないですよ。
本物は、ベイカー街221Bを訪ねたり、パイプ好きなら名前をとったたばこやらパイプやら蒐集してるでしょう。
アハハ。年がバレましたか。
もっとも1955年は本の奥付の日付で「昭和30年6月15日第6冊」になってますから買ったのは2、3年先からしれません。
(つまり第7冊がでる前ということです)
ぼくの本では番地が「ベイカー街221乙」となっていてぼくはずっとこれで記憶してました。
「乙」なんて表記がイギリスにあるはずはないのに、つまり、甲乙丙の2番め、221甲があり、その隣りが221乙。
そう信じてたんですね。
後年になり、221Bというのを知り、あ、そうか、甲乙丙の乙は、ABCのBなんだとわかったとき不思議な感じがしました。
いま思い出すと、「乙」は「2番め」ということ、それをごく自然に頭のなかで翻訳してたんです。
こういう思い入れというか、思いこみというか、これはヒトの心の不思議ですね。
心の魔の部分というか、ホームズで一番衝撃を受けたのが、この心の魔、です。
Commented by ちぇん at 2013-03-10 19:14 x
お邪魔します。

ホームズの吸っていたとびきり強いシャグタバコ吸ってみたいですね。
ピーターソンの出している「シャーロック・ホームズ」って銘柄は違うものみたいですね。
これがホームズの吸っていた銘柄の再現かと思っていました。
一番強いロープタバコを刻んだものなんかが近いのかな?

キングチャールズを後2ボウルってところまで吸いました。
穏やかな良い味ですね。
それに細いシャグカットは径の小さいパイプにも詰めやすいのが嬉しいです。
軽くて咥えやすいパイプってチャンバー径が小さめですからね。
このキングチャールズとコモンウェルスがイングリッシュミクスチャではお気に入りになりました。
良い銘柄を教えてくださってありがとうございます。
Commented by jinsenspipes at 2013-03-10 20:46
>ちぇんさん
いらっしゃーい!
ピーターソンのホームズは甘口らしいですね。
ホームズをイメージしたたばこということでホームズが吸ってたのとは違うでしょうね。
マクレーランドの221Bシリーズはどうなんでしょうか。
ブラックシャグというのもあるみたいですが。

キングチャールズ、気に入っていただけましたか。
ぼくはここのところこればかりです。
ぼくのパイプもボウルが小さいのが多く、おかげで吸いやすいです。
ほんと、おいしいたばこですよねェ。