読み物: シャーロック・ホームズのパイプ 2
以下は被害者の持ち物リストの一覧。
◯ 白銀号事件[思い出]
「ろうマッチが1個、2インチほどの獣脂ろうそくが1本、A.D.P印のブライアのパイプに長刻みの(long-cut)キャベンディッシュたばこを半オンスばかり詰めた海豹皮のポーチ、金鎖のついた銀時計、金貨で5ソヴリン、アルミニウムの鉛筆ケース、書付が2つ3つ、『ロンドン、ワイス会社製』と刻印のついた非常に細くて鋭い、それでいて曲りにくい刃をもつ象牙の柄のナイフが1つ」
ろうマッチはいまのマッチ(安全マッチ)の前に作られた硫化燐マッチである。いまのマッチはマッチ箱の側面に貼られたストライカー(擦り板)にこすりつけないと発火しない。しかしろうマッチはどこで擦っても火がつくので我国では作られていない(輸入品で売っているが)。獣脂ろうそくはいまのろうそくと違い動物の脂分から作られたもの。マッチはもちろんだがろうそくもパイプ喫煙用じゃなかったかとぼくは思う。つまりろうそくにマッチで火をつけ、パイプを着火したのだろう。
この持ち物リストを見てホームズはさいごの象牙のナイフに注目する。そしてワトソン博士が「これは医者のほうで白内障メスというやつだ」と看破し、事件解決の糸口となる。つまりこのリストで象牙のナイフ以外は当時の紳士のポケットにありがちなものだと見過ごされることを著者は意図している。マッチ、ろうそく、パイプ、たばこポーチ、いずれも必需品だったのだ。
さて「このA.D.P印のブライアのパイプ」である(原文は、A D P brier-root pipe)。この「A.D.P」が何の略称か、シャーロッキアン達が目の色かえて詮索してきたが、まだ当たりはないようである。パイプ好きがすぐ思いつくのは「アルフレッド・ダンヒル・パイプ」であるが、残念でした、ダンヒルがパイプを作りだすのは1910年のこと、この小説の発表は1892年だから無理である。おおかたの推測は当時ロンドンに無数にあったパイプ製造会社もしくはパイプショップだろうということになっているが、どなたか探し当てたらたいへんな発見になることうけあいである。
もう一つ、こちらは留守中にホームズを訪ねた依頼人が置き忘れたパイプである。
◯ 黄色い顔[思い出]
「おや! あのテーブルのうえのはワトソン君のパイプじゃないね? 客が忘れてったんだ。古いブライアに通常たばこ屋で琥珀と称しているまがいものの長い吸い口がついている。いったい本物の琥珀の吸い口といったら非常に珍しいもので、このロンドンにだって本物を持ってる人は幾人もあるまい。なかにハエのはいっているのは本物だと思いこんでいる人もあるが、偽物の琥珀のなかに偽物のハエを入れることがりっぱに職業として存立する世のなかだからね」
なるほど当時はそうだったのか。貴重な時代証言である。ところでホームズも琥珀の吸い口のブライア・パイプを持っていることは前回紹介した。ホームズの琥珀の吸い口は本物だったか、偽物だったか、想像するとおもしろい。
◯ 黄色い顔[思い出]つづき
「パイプというものは、時々きわめて面白いことを教えてくれる。懐中時計とくつひもとを除けば、おそらくこれほど個性を現わすものはあるまい。もっとも今の場合は、そう大して重要な特徴も現れてはいないが、それでもこのパイプの持主が筋骨たくましい男で、左ききで、歯なみが丈夫で、ものごとに無頓着な性癖があり、経済上の苦労のない男だくらいのことはわかる」
なんと!
ここからえんえんと謎解きがはじまるが、はしょって紹介すると、
「吸い口を強く歯で噛んである=筋骨たくましい男、歯なみが丈夫」
「パイプの片側が焦げているのはランプやガスの火で着火している証拠。しかも右側が焦げている=左きき」
「パイプとともに置き忘れられたたばこは1オンスが8ペンスもする高価なもの=経済上の苦労のない男」
「ものごとに無頓着な性癖」についてはとくに記述はないが、パイプを焦がしたり、置き忘れたりすることから類推できることなのだろう。
ワトソン博士相手にこの謎解きをしているところにパイプの持主があらわれる。ホームズの推理通り、背の高い、がっしりした30歳くらいの青年だった。
さらにこういう一節がある。「このパイプは新しく買ってまず7シリング6ペンスというところだろうが、見たまえこの通り二度修繕してある(中略)これは二度とも、新しくパイプを買いなおすよりも高い修繕料をとられたに違いない」。また、この青年がパイプとともに残したたばこは1オンスが8ペンスもする高価なものとなっていて、このたばこについてはのちほど紹介するが、目が止まったのはパイプとたばこの値段である。
ある記録によると、当時の貨幣価値は1ポンドがおよそ現在の3万8000円くらいだそうである。すると7シリング6ペンスのパイプはおよそ1万4000円になる。たばこのほうは1オンス約1300円。なるほど、パイプはまあまあの値段。たばこはいまの2オンス缶がイギリスで買うと10ポンド(1500円)くらい。昔は税金も安かっただろうから1オンス1300円はかなり高いたばこということになりそうだ。
さいごにパイプの着火にランプやガスの火が使われたという記述を補足しておきたい。イギリスのヴィクトリア朝期はすでにマッチが普及していたが、しかしそれ以前の習慣からランプの火にパイプを近づけて着火する人も多かった。また、当時ロンドンにはガスが供給されていたので、市内に無数にあるたばこショップは店内にガスの火口をつけっぱなしにし、客が勝手にパイプに火をつけられるサービスをしていたというからおもしろい。
ホームズ探偵談はこういう時代を知るてがかりがあちこちにあるのがうれしい。